何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えれ与えられます。 マタイ6:33
私たちの主イエスは、マタイ6章では「見てもらおうとして」善行を行わないように教えられます。
当時、ファリサイ派の人々、律法学者たちは、自分たちの敬虔さや、熱心さを人々に誇るような生活をしていたのでしょう。それは、まさしく、律法の限界、人間は行いによっては、神を知るに至る事は出来ないと証明しているといえます。
旧約聖書の人々でも、隠れたところにおられ、隠れたことを見ておられる父なる神に生きるのを知ることが出来なかったのです。
しかし、神は、私たちの主イエス・キリストにより、私たちに対する憐れみを示されました。そして、神は私たちに信仰により、永遠の命を得させて下さいました。
私たちは、今、父なる神と主イエス・キリストを信じる者、信頼する者です。ですから、私たちにとりまして、善を行うのは、父がまず御子によって、滅びから命に贖い出し、愛して下さったからです。私たちの業は、人の評価を得る為ではありません。キリストに喜んでいただきたいとの願いによるのです。
私たちは、洗礼によって、神の国に入らせていただいたのです。私たちは互いに神の国の民です。神が私たちを守っておられます。イエスは、その事を「求めよ」と言われるのです。神があなたを祝しておられるのを見い出すことが出来るよう求めましょう。同時に、神があなたを許され、喜ばれていることも「求めなさい」と言われます。神はあなたを聖なる交わりに入れていてくださいます。御言葉と祈りの生活を大切にしましょう。
イエスの服に触れた人
「この女がイエスの事を聞いて、群衆の中に紛れ込み、うしろから、み衣にさわった」(マルコ5:27)
聖書は「12年間も出血が止まらなかった女性が、イエスの服に触れた」と言います。イスラエルに於いては、このような人は『汚れた人』と考えられ、宗教上の制約を受け、つらい生活が強いられました。その上、多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ、その持ち物をみな費やしてしまいましたが、その結果、悪くなる一方でした。このような中で、この人が、どのように生き、そして、今日、イエスに触れることが出来たのかです。彼女の生活を考えるヒントが、旧約のルツ記のナオミと云う人にあるのではないでしょうか。ナオミの事はご存知でしょう。この人は、モアブで、主人と2人の息子さんを亡くし、平安な家庭から不幸にされました。しかし、ナオミは、この事を受け入れ、神を、正しい方とする生活を続けた人でありました。それは彼女を御心にかなう者と変えたのでした。
12年間、病気の為に、苦しんできた女性も、ナオミのように、主に信頼していたに違いません。それは、この人々の心を、砕かれた心に変えていたと言えます。それは、小さい者、貧しい者と認めさせていたと、その時、イエスは、多くの小さい人、貧しい者を救い、愛される方として登場されました。彼女にとりまして、イエスは自分を救って下さる方と見えたのです。彼女は、弟子たちも、群衆たちも知らないイエスを知って、イエスに手を伸ばし、み衣にさわり、神の御心として、イエスの力を受けるものとられたのです。次には、イエスが、この方を見つけようと探して下さったと物語られます。イエスを、正しく恐れるものとされることが結論ですが、まず、何よりも、どんな所を通ることがありましても、主を拝し、信頼し続けることが主の御心であると聖書は語っています。
『福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで進行を通して実現されるのです。「正しいものは信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。』
この御言葉は、ヨハネの3章6節とともに、イエス・キリストの福音を見事に表していると言えます。神の義とは、神が、私たちを救って下さる事です。それは、神がキリストによって罪人の罪を赦して下さることであり、そして、神との間に平和を得させ、キリストによって神の子として下さることです。それは、キリストにあって、新しい命に生かされる事、これは、計り知れない神の憐れみ、恵みによるのです。
この為に、神はイスラエルを通して、私たちがどんなに神に背くものか示されました。そして、御子イエス・キリストを遣わし、神の義を啓示して下さったのでした。
「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」(イザヤ53:6)
皆さん、神は「神の義」を賜物として、イエス・キリストを信じる者、だれにでも与えて下さいます。
心からイエス・キリストを求めましょう。
そして深く、私たちの主キリストに信頼しましょう。
「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を贖う供え物となさいました。」ローマ3勝25節
なんとありがたい御言葉でしょう。何度聞いても、神の憐れみの深さに感謝せずにはおられません。預言者イザヤが言うように「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。」(イザヤ53:6)のでした。
旧約時代、神はイスラエル人が罪を犯した場合、羊や山羊などを祭司が屠り、血を祭壇の角に塗るなら、罪の許しとされました。しかし、「それは人々の良心をきよめることはできませんでした。」とあります。その儀式のあとにイスラエルは絶えず、神に背き、罪を犯し、高ぶる道に陥りました。わたしたちのキリストに対してもしかり、でした。聖書は、それらの儀式は、「キリストが十字架で果される贖いを指示していたのである」と言っています。
皆さん、私たちの国にも、人が清める方法や願いが聞かれる儀式が山ほど示されていますが、私たちの父なる神が、求められる道は一つです。それは信仰です。罪の許しはキリストの業いよるのです。
以前の私たちの義は、神に逆らわせ、キリストを十字架につけるものでした。そして自分を義とさせました。神は、それほど自分を義と思い、神を否定する全世界の為に主イエス・キリストを罪の許し、義として下さいました。心から信じましょう。
そこで、彼は我に返って言った。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に有り余るほどのパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 ルカ15:17~19
これは、主イエスが教えられたたとえです。
この人は、父親のところでは、自分の自由が全くないと思い、父の財産を分けてもらい、家を飛び出したのであった。彼は、自分がしたいと思うことに夢中になっていた。それで自分に満足していた。成功した気分であったに違いない。
イエス様は、このような人生の間は、決して我に帰る、「自分とは何か」と問うことは、人はしないものであるとご存知です。
ところが、人の人生には、幸いなことに、転機が訪れるのである。それは、この人にとりまして、幸せとは正反対の、まったくの不幸として「滅びる!」と思われる事態として訪れました。それは財産を使い果たした時、ひどい飢饉に襲われたのでした。
しかし、これが、この人を「我に返す」転機となったと主は言われる。これは、この人が、孤独と暗黒の中で、福音を耳にしたのである。「自分とは何者であるか」を聞いたのです。そして、「父が、自分のことを全部許して、帰りを待っておられる」と、彼は聞いたのである。(これこそ、主イエス様が、世に来て、成し遂げられた救いにほかなりません。)
主イエスは、あなたが、あなたの父なる神の家に居るべき人であると言われます。